自分の中には宝物があるんだよ。

自分の中には本当に宝物があるんだよ。
これを信じて行きましょう。

(古淵 慈祥僧正 法話 7/7)

前回分を読む

 今、小さなお寺の住職になってから、若手に勉強会で教えてくれってことで、『大師法』や『十巻章』を教えている中でね、改めて感じたことを最後にお話しします。

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 皆さん拝んでいただくんですけども、お大師様のお姿。
 お大師さんは、手に数珠とね、五鈷杵(ごこしょ)を持っておられますよね。
 この五鈷杵を、普通に持ったらええんやけど、無理にこうやって反(かえ)して持ってますよね。
 なんでこう持っておられるんかって話です。

 五鈷杵ちゅうのは、これは「五智」っていってね、五つの智慧。
 仏さんの五つの智慧をあらわしているんです。

 これをこうやって持っておられるっていうことは
 
 「あなたたちみんなの胸にこういう智慧があるんだよ」

 っていうことを示すために、わざわざ、こうやって反しとんです、うん。

 自分をしょうもないもんやと思ったらいかん。
 自分の中には、こんな宝物があるんだよと。
 「仏性」が、「智慧」があるんだよと、お大師さんは教えてくださってるんです。

 で、数珠も持っておられますけどね。
 持ち方が、こういう持ち方なんです。

 我々、気をつけますけども、数珠をくる時はね、こっち側半分だけをくるの。
 で、これはなんでかいうたら、数珠のこっち側は修行の世界。
 もう半分のこっち側はね、仏さんの世界です。
 だから仏さんの側はくらない。
 片方だけしかくらないです。

 で、お大師さんは、修行する側を握っておられるんです。
 ということは、私たちが修行する間、お大師さんは

 「必ず、あなたたちを守るぞ」

 という誓願でこう持っておられるんです。

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 「誰にも、こんな五智があるんだよ。これを信じて行きなさいよ」

 と、そして
 
 「修行中は、私が必ず守ってあげるよ」

 っていうお姿がこうなんです。

 ですから、お大師さんのお姿を拝する時はね、ただ、ありがたいだけじゃなくて、これを覚えて、そういう気持ちで拝んでいただいたら、お大師さんの気持ちがよりわかるし、近づけると思うんですね。
 
 この頃、よく自殺するような人もありますけどもね、こんなことはいかん。
 
 やっぱり、自分の中には本当に宝物があるんだよと。
 
 これを信じて行きましょうと。
 
 さっき言ったようにね、私なんかもそう。
 つまらん人間だけども、ね、一歩ずつ前へ出たらね、なにかあるんだと。

 そういう意味で、本当にこんな弟子であってもね、お大師さんは拝んだら助けて下さるっていうことを、皆さんにお伝えしておきたいなと思いますし、一生懸命、拝んでくださったらと思います。

 ま、そういう私の修行体験のお話をさせてもらって、なにかが皆さんのお役に立てばと思います。

 最後に、南無大師遍照金剛を三遍お唱えください。

南無大師遍照金剛 南無大師遍照金剛 南無大師遍照金剛

 ありがとうございました。


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第19回 一日修行体験会(平成23年3月6日) 法話 
光泉寺(徳島県)住職 古淵 慈祥 阿闍梨 (了 7/7)


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 御詠歌の名門寺院の嫡子としてお生まれになり、僧侶としてのエリートコースを進んでおられた古淵僧正。お父様と喧嘩して家を出た後も、大きなお寺の後継ぎになられ、順風満帆な人生を歩んでおられたはずが、一転、中年になってから無一文で苦行の旅へと出ることになられました。

 しかし、その後、真言宗の数ある苦行の中でも最も厳しい修行のひとつとされる「虚空蔵菩薩能満所願最勝心陀羅尼求聞持法」をはじめ数々の修行や経験を乗り越えられた現在の古淵僧正は、文字通り仏道を歩む菩薩のように、力強くて、それでいて優しさに満ちた慈悲のオーラを持った方でした。

 当日は時間を延長してお話しいただいたうえ、お土産の徳島の和三盆を使った菓子をいただきながらのお茶の時間にも、豊富な知識と体験に基づいた、興味深く、そして説得力溢れるお話をたくさんしていただきました。すべてのお話をご紹介できないのが残念ですが、またの機会にご紹介できればと思います。

女性を紹介してもらえるはずの日に以前のお寺をクビになられた古淵先生ですが、住職になられた今のお寺の信者さんと熟年結婚され、現在は新婚さんです。どうぞお幸せに!

合 掌

台風12号に関して

毎月第1日曜日の出灰不動尊『一日修行体験会』は
基本的には雨天決行です。

明日4日(日)も基本的には予定通りとさせていただきます。
しかし、台風12号の影響次第によっては
スケジュールや内容を
予告なく変更することがございますので、
予めご了承ください。


合掌

9月の一日修行体験会

9月の一日修行体験会

第25回 一日修行体験会
9月4日(日) 午前10時
から

◎参加費:大人3,000円(祈祷料、昼食代込)
◎JR高槻駅南口(松坂屋南西角付近)より
 無料送迎バス運行
◎2日(金)までに要予約
◎お問い合わせ・お申し込み
  TEL.072-637-5010


9:30 受付開始

10:00 授 戒
10:20 堂内護摩
11:00 柴燈護摩
11:30 滝 行
12:00 中 食
13:00 法 話 講師:スダン・シャキャ先生
         (種智院大学 講師) 
14:00 作 務
15:00 観 法
16:00 閉 会   


9月は柴燈護摩が厳修されます。

古いインドの仏教では、「正五九月(しょうごくづき)」
(1月・5月・9月)」は、
八つの戒律を特に守り功徳を積む月とされていました。
中国の古い信仰でも、正五九月は
天の方位神(月金神)が元の定位置に戻る月で、
心新たに祈願をたてるのに適した月であるとされてきました。

日本では、結婚や家移りなどを避け、
厄災を祓うため神仏に参詣する月とされており、
この月のご縁日の参詣は「正五九詣」と呼ばれ、
ご利益の大きなお詣りとされています。

特に九月は台風をはじめ自然災害の多い月でもあり、
土地や家の厄災祓いには重要な意味がある月です。

このことから、出灰不動尊では9月の第一日曜日に
通常の堂内護摩に加えて
屋外での柴燈護摩を厳修いたします。

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9月・10月の法話講師
スダン・シャキャ先生
Dr. Sudan Shakya

種智院大学 講師。
ネパールより来日して16年。
釈迦族の末裔と伝わるシャキャ姓に生まれるが、
母国では物理学を専攻。
種智院大学に留学、卒業の後、東北大学大学院で、
仏教経典の原典注釈の比較研究で博士号を取得。





イワタバコ

北摂の山々は基本的に硬い岩山です。

出灰不動尊のある出灰不動谷も
険しい岩に囲まれた渓谷なのですが
不動之滝の滝壺周辺や
本堂周辺の崖の岩肌に
今、紫色の星型をした可愛らしい花が咲いています。
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これは「岩煙草」という草花です。
正式には、イワタバコ科イワタバコ属イワタバコだそうです。

葉っぱがタバコの葉に似ていることから
この名前があるそうですが、
この葉っぱは「煙草」には使えないそうです。

でも、おひたしにしたらおいしいらしい…

でも、花が咲いている間は、取らないでくださいね…

薄暗い岩の斜面に咲くのですが、
暗い岩場に紫の星が無数に輝いてるようだなんて
表現する人もいます。
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花が終わって種が落ちてからなら
取ってもいいのですが、
心無いハイカーの人は花が咲いているときに抜いてしまうので
年々数が減ってしまいます…

御廟の前で気がついた、亡くなった父親が守ってくれてたんだと。

御廟の前で気がついた
亡くなった父親が守ってくれてたんだと。

(古淵 慈祥僧正 法話 6/7)

前回分を読む


 でね、なんとか、お陰様で、一生懸命百万遍唱えていくと、その絵に描いた本尊さんが、やがて、光を出して輝き出します。
 それは仏さんの光です。
 「仏光」っていうんです。
 その光によって、私、やっぱり、いろんなものから救われてたと。

 嫌な相手でもね、「好きです」「好きです」って言われたら、そのうち、だんだん気持ちが揺れ動くようなもんでね。
 仏さんは「好き」って言うてはらへんかもしれんけどね、でも「好きです」「好きです」って百万遍も言われたら、ちょっと助けたろかという気になってくる。
 
 だから、諦めたらいけませんよね、百万遍。

 でも、よそでやったらストーカー扱いされるかもしれませんけどね。

 修行が終わりましたら、お世話になったお大師様の所に御礼参りに行くんです。
 修行に入る前も、私らは高野山の奥之院に行って、お大師さんにお願いします。
 で、また終わったら、御礼参りに行く。

 で、御礼参りに高野山へ行ったら、たまたま、その時、「大日経の講伝」っていって、坊さんの勉強会があった時でね、いろんな坊さんも来てはるんです。
 
 で、奥之院の御廟の前へ行ったら、私の先に拝んでるちょっと年取った坊さんがおった。
 そのお坊さんが、なぜか妙に気になるんですね。

 「この方は、やっぱし、その勉強会で来てはんのかな?」
 とか思いながら拝んでた。
 その時、私、頭陀袋(ずだぶくろ)を、後ろに置いてたんやけども、その頭陀袋から財布が出とった。
 ほな、先に拝み終わったその方が
 「これ、どなたの財布ですか?」
 って言ってくれはったんです。
 「あっ、私の財布です。すんません。ありがとうございました」
 って言って、その時、初めて、言葉を交わしたんです。

 で、次、地下にお大師さまが入定されているのと同じ高さの所があるんですが、そこへお参りに行ったら、そこでまたお会いしたんです。
 普通ね、奥之院で拝んでいる時に話なんかしませんよね。
 で、その方は黙って先に出て行かれた。
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 奥之院には御供所(ごくしょ)っちゅうて、お茶を飲む所があるんです。
 求聞持して15キロ体重落ちてるんでね、体力もないし、帰る前に御供所でお茶を一杯呼ばれてから行こうと思って、そこへ寄った。

 するとね、そこに、また、いてはったんです。
 おにぎり食べてはった。
 で、改めて
 「先程は、ありがとうございました」
 って言葉を交わした。
 
 「今日の勉強会に来られた方?」
 って尋ねたら
 「いや、違うんです。毎月、月参りをしてます」
 って、そのお坊さんが言われてね。

 「へぇ~、どちらからですか?」
 「名古屋から来てます」
 「えらい御遠方から来られてるんですなぁ」
 
 ちゅうような会話をしてから、
 「お先に失礼します」
 ってね、私、帰りかけたんです。

 帰りかけたその時、母親から聞いていたうちの父親の弟子の話が、ふっと頭に浮かんだ。
 名古屋の春日井の電気屋のご主人が、奥さんが亡くなってから、いろんなことで、家をお寺に変えるんです。
 で、たまたま御縁があって、その人が、うちの父親の弟子になったという話。

 ほんで、振り返って
 「名古屋のどちらからですか?」
 って言ったら
 「春日井です」

 「大阪の古淵詢祥(じゅんしょう)を御存知ですか?」
 「よく知っています」
 って言ってくれた。

 やっぱり、亡くなった父親の弟子やったんです。

 ほいで、初めて気が付いた。
 まがりなりにも自分の力で修行してきたと思ってた、うん。
 けども、本当は、亡くなった父親がずっと守ってくれてたんだと。

 私は父親と喧嘩してね、家を出て、いろんなことをしてきた人間です。
 父親とはね、絶縁みたいになってた時もあって、大阪のお寺は、今、弟にやってもらってんやけどね。
 そんなことで、父親に対して、ええことなんにもしてけぇへんかったなっちゅうことで、八十八ヶ所も、父親が亡くなった時、四十九日から百箇日の間に歩いて廻ったんです。
 自分の懺悔のつもりでね。
 ところが、その父親が守ってくれていた…
 ということを思ってね。
 
 私にとって父親は俗縁では父親ですが、出家した身からいうと師匠なんですね。
 こんな弟子であっても見守ってくれていた。

 そして、真言宗のお坊さんの師匠をたどっていくとお大師さまが師匠であり、私たちはお大師さまの末弟子になる訳です。
 こんな弟子でもお大師さまはお見捨てにならないんだと。

 それを御廟(ごびょう)で、お大師さんに教えていただいた。

 それが、私、一番ありがたかった。
 今でも、思い出すと、こう、涙もろくなりますけどね。
 本当にね、ありがたいなぁってね。

 本当に仏さんがいらっしゃるなぁってことを、またご先祖さまもいらっしゃるんだと実感さしてもろてね。
 それから手を合わすのが変わってきました。
 檀家さんのお葬式や法事に行っても拝み方が変わりました。
 ですからね、最初は、私をクビにした坊さんを恨んだり、いろいろしましたよ。
 けどもね、今は、あの人は私に修行させるために、わざとこうしてくれたんかなと思ったらね、逆に、手を合わしたくなる。
 
 人生そんなもんでね、自分にとって都合の悪い人とか、良くない人とか、そんなのはない。
 きっと何か導いてくださっているんだということを思うようになりましたね。


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第19回 一日修行体験会(平成23年3月6日) 法話 
光泉寺(徳島県)住職 古淵 慈祥 阿闍梨 (続 6/7)
⇒続き『自分の中には宝物があるんだよ。』を読む

お盆の精霊送り法会

本日、お盆の精霊送り法会として
施餓鬼(せがき)法要と
流水灌頂(りゅうすいかんじょう)塔婆供養を修法いたしました。
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「施餓鬼」というのは、読んで字のごとく
「餓鬼に施す」ということです。

お釈迦様の弟子・阿難尊者が
目の前にあらわれた餓鬼の訴えに応じて
餓鬼道に堕ちて苦しむ衆生に
飲食を施し、三宝(佛・法・僧)を供養することで、
衆生を救うとともに、自らの延命をも得たことが
「施餓鬼会」のはじまりです。

また、同じく釈尊の弟子・目連尊者は、神通力によって
今は亡きお母さんの行方を捜したところ
餓鬼道に堕ち「逆さ吊りの刑」に処せられていたといいます。
お釈迦様に相談したところ
中元節(旧暦7月15日)に比丘たちに飲食を施すことが
餓鬼をも施すことになるとおっしゃったので、
そうして、お母さんを供養することができたという話もあります。

この二つのお話がひとつになって、
今日のような「お盆」のご供養になったとされています。

「逆さ吊り」の状態では当然飲食ができません。
だから餓鬼さんには、特別の方法で食べさせてあげないと
供養ができないというわけです。

その「逆さ吊りの刑」のことを
サンスクリット語で「ウランヴァナ」というため
この言葉が「盂蘭盆(うらぼん」と漢字に音写され
「お盆」という言葉になったというのが
これまでの定説でした。

しかし、近年、サンスクリット語の語源ともなった
古代イランの言葉で「霊魂」(精霊)を意味する言葉に
「ウルヴァン」という言葉があったことがわかり
こちらの説も有力になっているそうです。

確かに、こちらのほうが自然かも…。

語源はともかく、
茨木・妙芳院でお施餓鬼と塔婆の開眼供養を行い
午後から出灰不動尊で流水灌頂を行いました。
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今年は、東日本大震災でお亡くなりになられた方々の
ご供養もさせていただきました。

合掌









一日修行体験会、3年目へ!

平成21年の9月から

毎月第一日曜日に開催してきた

出灰(いずりは)不動尊の「一日修行体験会」。

7日(日)、第24回が行われ、

おかげ様で無事2年目が終了いたしました。

この1年間の参加人数はのべ168名。

前年比約1.5倍です。


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昨年春、NSMブックスエソテリカ宗教書シリーズ『修行の本』(学研パブリッシング)に

この体験会のことを「ちょこっと」紹介していただいたり、

昨年夏頃から、種智院大学の先生方が

学生や聴講生の皆様に紹介してくださったこともあり、

年末頃までは、1年目の2倍を軽く超えるペースで参加者が増えていたのですが、

1、2月に出灰は雪に埋もれて、

3月の震災の後、景気も一向によくなる兆しもなく

参加人数の面では、なんとなくトーンダウンしかけましたが、

ここ最近は、お陰様で新しい参加者も徐々に増えております。


これまでご参加いただいた方々、

法話の講師として不便な山中までお越しいただいた先生方、

そして、様々なかたちでご協力いただいた

すべての皆様に感謝申し上げます。


特に3、4、5月は、参加人数は若干少なめでしたが、

法話の先生方が、みなさん、

打ち合わせたわけでもないのに

壮絶な(?)ご自身の体験に基づく「すんごいお話」をしてくださいました。

本来ならば、真言宗の僧侶であっても

もっと高い料金をはらって、

大きい講堂で大人数の中でしか聞けない話…

いや、多分、そういう形式通りの場所では

決して聞けない話だったかもしれません。


というわけで、

これらの話を一部だけでも紹介できればと、

このサイトを開設しました。

機会があれば、それ以前の法話も掲載していければと思っておりますので

実際に参加された方も、参加されなかった方も

ぜひ、チェックしてみてください。



合掌
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死んで仏さんの所へすぅっと行けるっちゅう人間はおりません。

死んで仏さんの所へすぅっと行けるっちゅう人間はおりません。
だからこそ、供養、必要なんです。

(古淵 慈祥僧正 法話 5/7)

前回分を読む

 どこのお寺でも、そうですけど、必ず「鎮守さん」っていってね、神さんがいらっしゃる。

 神さん大事でっせ、皆さん。

  ここは仏教やけど、じゃあ、神さんを大事にしないかというと、そんなことはない。
 日本の土地は、全部、神さんのもんやからね。

 家を触る時もそうですけどもね、自分の家やからって、勝手に触ったらあきまへんで。
 借家やったら、大家さんに断らんと勝手にしたら、いかんわね。
 自分名義の土地やから、何してもええかっちゅうと、そんなことない。
 こんなん全部、神さんに断らないかん。
 そうでない場合は、いろんな障りが出てくる。

 その求聞持道場の山の上にも「石鎚権現(いしづちごんげん)」って鎮守さんを祀ってるんです。

 最初の一座が終わって降りてきたら、身体が熱っぽく、しばらくぶっ倒れた状態で、これでは二座目には、とても入れん。
 6、7時間も座って念誦はようせん。
 どないしようかと思ったんですけど、やっぱり、その鎮守さんにお参りにいかないかんと思って、山道を歩いて行ったんです。
 もう、その時、身体はえらいけど、這ってでも行かないかんと思ってね。

 ほんで、神さんをお参りしたらね、すごい身体が楽になったんです。
 ずぅーっと座ってるから、身体が縮んでて、山を登ることで、ストレッチの効果もあったんだと思うけど、身体がすっきりとしてね。

 これで二座目にいく勇気ができたんです。

 「あっ、これは、神さんに助けてもらったな」
 と思って、それから、毎日、日参してました。

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 求聞持法って、そうやって最初の痛みが、ちょっと楽になってきたらね、虚空蔵さんと一体になって素晴らしい境地を味わうことができるかって

 …そんなことはない。
 そんなんちょっとです。

 仏さんと向き合ってるんだけど、結局はあれです。
 これね、自分と向き合っとんです。
 
 普段、我々は、自分の嫌なこととか、腹立つこととか、いろんなことを、全部蓋して生きてるんです。
 ところがね、こうやって仏さんと向き合っとったら、その自分の中で蓋をしとった嫌なことが、ポンポンポンポン出てくる。

 ですから、修行の行者、私の写真も髭生やしてますけどもね、修行中は、剃刀を使(つこ)たらいかんっちゅう言い伝えがある。

 「そんな、仏さんの前に出んのに、髪の毛ボウボウやったらいかんだろう。きれいにしないかんだろう」
 と思うんやけどね。

 なんで使ったらいかんのか、わかった。

 修行中、発作的にね、死にたくなります、うん。

 お寺を追い出されてね、自分では、もう、それをふっ切って、修行に入ったつもりなんです。
 一度死んだと思って。
 けどもね、それが何遍も出てくるです。
 惜しかったってね。
 あんだけ大きな寺で、自分は、左うちわで暮らせたのにというね。
 で、その住職への恨みだったり、自分が良かった時のこととか、親に対してしてきたこととか、いろんな思いが出てくるんです。

 それで、自分が嫌になってくる。
 自分ではふっ切ったつもりが、自分の奥深くには、まだ、こんだけ欲望があるのかと思ってね。
 もう辛くなってくる。
 
 うん、これ、ホンマに、もう死にたくなりますね。

 最近、「直葬(ちょくそう)」とかいってお葬式をしない、供養もしない人がいてますけどもね。
 そうやって、じっとしてたら、そんなもんが出てくるんです。
 私自身の体験からすると、死んだ人がね、お葬式もせん、引導も渡さん、ほいでね、すうっと成仏できるかっていうたら、できるはずがない。

 そんだけ、人間は生きている間に、いろんな「業(ごう)」を作っとる訳です。
 「カルマ」っていいますかな、インドの言葉ではね。

 これは仏教でもそうやけど、日本人の元々の考え方っていうのは、人間がオギャーって生まれてくる時は、清らかな魂で生まれてくるんです。
 清らかな魂で生まれてくるんだけども、人間っちゅうのは、やっぱり、生きている間に、悪いこと、いっぱいするんです、うん。
 で、悪いことしたら、魂が穢(けが)れるんです。で、死ぬ時には、だいぶ穢れとるんです。

 この穢れた魂を、清めていくために供養していく。
 これを「禊(みそぎ)」っちゅうて、供養して、やがて、清まったら、「祖霊(それい)」に変わっていくんです。
 祖霊に変わったら、これは、もう神さんと一緒です。
 そして、今度は、子孫に対して御利益をいただける。

 元々、日本人は、そういう考え方で供養してたんです。
 今の人は、仏教があって、先祖供養があると思ってますけど、そうじゃない。
 先祖供養するのに、仏教のお経が、すごい効力があるっちゅうんで、仏教が採用されたんです。

 だから、死んで葬式もしないということは、こういう魂を清めないということ。
 
 そしたら、その魂は、ずっと迷ったままやで。
 
 その魂が、子孫に対して、いいことするかっていうと、そうじゃない。
 
 「助けてください」
 って寄ってきます。

 お葬式をしなかったら、葬式代も、坊さんのお布施も、式場代も浮く。
 「亡くなった人の貯金通帳だけください。後、一切費用出したくありません」
 としたら、いろんなことで助かると思うけど、結局、最終的には損する。

 なぜなら、救われてない、この魂がね。

 今は住職してますけどもね、こういう体験をさしてもろたお陰で、法事とか、お葬式で真剣に拝むようになりましたね。
 自分の魂が、そうだったからね。そんな簡単なもんじゃないんだちゅうことでね。  


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第19回 一日修行体験会(平成23年3月6日) 法話 
光泉寺(徳島県)住職 古淵 慈祥 阿闍梨 (続 5/7)
⇒続き『御廟の前で気がついた、亡くなった父親が守ってくれてたんだと。 』を読む

格好つけてるうちは、まだ継子( ままこ)。

格好つけてるうちは、まだ継子( ままこ)。
さらけ出し、一歩ずつでも歩いて行けば道は開ける。

(古淵 慈祥僧正 法話 4/7)

前回分を読む


 そういことで、無事に「求聞持法」の修行に入れたんですが、入れたから楽かといいますと、この…

 のうぼう あきゃしゃきゃらばや おんありきゃ まりぼり そわか
 のうぼう あきゃしゃきゃらばや おんありきゃ まりぼり そわか…

 五十日でしましたんで、一日二万遍。
 一日二万遍唱えて、五十日で百万遍です。
 朝早く四時から入りますけど、一座で一万遍を唱えます。
 で、昼から、また、もう一万遍唱えます。

 じっと、この体勢でね、

 のうぼう あきゃしゃきゃらばや おんありきゃ まりぼり そわか
 のうぼう あきゃしゃきゃらばや おんありきゃ まりぼり そわか…

 と唱えながら、七時間も八時間も座ってないかんのです、ええ。

 そうするうちに、榧(かや)の念珠っていうね、榧の木でできた一番軽い念珠を使うんですけど、その軽い念珠でもね、ずぅーっと持ってたら、重たくなってくる。
 こう、だんだん、だんだん下がってきます。 
 で、また、元に戻してやり直します。

 で、そのうちね、膝が痛い。
 腰が痛い。
 ずっと同じ体勢ですからね。

 で、そのうちね、もう、どこが痛いかわからん。
 全身を痛いのが駆け巡ってくる。
 もう、ホンマ、苦しみの連続ですね。

 これ、私が四十六歳の時に入ったんですけどね、二十代で一度やっとるんですね。
 若い時はね、一晩寝たら、回復してリセットされてるんです。
 で、また頑張ろうと思う。
 
 ところがね、年取ってると回復せんのでね、もう座ってすぐに痛い。
 もう、身も世もない。
 ほいで、なんでこんなこと始めたんかなぁとか思うしね。
 いろんなこと出てきます。
 
 もう、ホンマに辛いです。
 
 でも、そんな簡単にケツ割られへん。
 逃げて帰りたいけど、いや、ケツ割られへん。

 で、泣きました、しまいに。

 ぼろぼろ涙が出てきてね、泣いて、泣いて、泣いて。
 これねぇ、そしたら、泣いたら…

 楽になった。

 これも三井英光先生って偉い方がおっしゃってたことなんですけども、仏さんっちゅうのはね、自分の親と一緒なんだっちゅうてね。
 だから、なんでもお願いしなさいって、おっしゃったんです。
 
 仏さんというのは、親と一緒だと。
 
 ま、最近、このたとえって通じにくいね
 …っていうのは、親が平気で子どもを殺すしね。
 昔は、仏さんの心って親心ですよって言うたら、すぐ通じたんやけど、今時は、たとえが難しいんでありますけども…。

 ですから、修行に入ってから、まだ格好つけてるんやね。
 仏さんにそんなことを言うたらいかんとか、お願いしたらいかんとかね。
 三井先生がおっしゃったのは、こういうことせえとか、したらあかんとか、なんとかいうたら、まだ継(まま)っ子なんです。
 継っ子の遠慮があるから言わんので、本当は仏さんになんでもお願いしたらええんです…っておっしゃってます。

 でも、やっぱり、最初は、仏さんの前で格好つけないかんとか、いろいろと、こっちにあるんです。
 本当に辛いです、本当にね。
 でも、それがみんな、痛いし、たまらんしで、飛んでしもた。
 で、もう、何もかもさらけ出して、自分はこんなもんだと。
 お経やっても勤まらんしね、こんなもう、痛くて、苦しくて、どうしようもない人間だというのを仏さんにさらけ出したらね…

 楽になります。

 滝もそうやね。
 あれは不思議なもんでね。
 足だけ入ったら、冷たい。
 どんだけ冷たいねん。
 こんだけ冷たいとこ入ったら、心臓止まるんちゃうやろか。
 なんてことするんやろとね、思うんです。

 でもね、
 「えいやっ!」
 と全身入ったら楽なんですね、あれも。

 だから、皆さんの人生も一緒やけど、今、尻込みして、なんかしてるうちは、あかん。
 思い切って、
 「えいっ!」
 と入ってしもたら、そこへ道が開けるんですね。
 
 だから、滝に入ることは、そういうこと教えてもらうということ。
 そういうことをね、修行をすることによって教えてもらえるんです。
 で、それを、また人生に活かしていかないかんね。

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 人の歩みって、そんなもんでね。
 例え、しんどい思いをしても、とりあえず一歩踏み出せば、いつか、いつか着くんだということ。
 だから、年だからとか、なんとか、いろんなこと、言い訳することは、そこに留まってるんです。
 いくつになってもね、一歩ずつ進んでいこうと思ったら、道はそこに開けてくるし、そうしていったら、その大きな仏様のお力をいただけるんです。

 仏道を歩むというのは、最終的には仏さんのことが目標です。
 仏さんは何かというたら、完成された人格ということですね。
 人格をより完成していこうと。

 なかなかできませんよね。
 わしもすぐ腹立てるし、怒るし。

 ですから、今生駄目だったら、来世。
 来世駄目だったら、再来世ね。
 そういう目標を立てて行ったらいいじゃないですか。
 そういう目標を持てるのは、仏教しかないと思うんです。

 これをきちっと据えていったら、そないフラフラしないです。
 目先の欲じゃない。
 この世だけの話じゃない。
 仏さんになりたいちゅう願いをおこしたらね、来世にも通じていく。
 そして、ぶれない。

 そういう意味で、私は仏教に触れて、ホントっ、ありがたいなぁと思うんです。


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第19回 一日修行体験会(平成23年3月6日) 法話 
光泉寺(徳島県)住職 古淵 慈祥 阿闍梨 (続 4/7)
⇒続き『死んで仏さんの所へすぅっと行けるっちゅう人間はおりません。 』を読む


『木瓜封じ』と『流水灌頂』

昨日、出灰不動尊で『木瓜(きうり)封じ』の法要が営まれました。

『木瓜(きうり)封じ』とは、弘法大師空海が、聖徳太子の御廟参篭中に感得された救世利民・諸病平癒の秘法です。暑さの厳しくなる夏の土用の時期に病いや災いの元となる邪気を 加持祈祷した木瓜(胡瓜)に封じ込め、残りの半年を無事で健やかに過ごすための“夏の厄除け”です。

「きゅうり」は、現在では「胡瓜」と表記されますが、古くは「木瓜」と書かれました。現在「木瓜」は(植物の)「ぼけ」とも読むことから、『木瓜封じ』は「ボケ封じ」にも通じるともいわれています。

護符を埋め込み、名前と願い事を書いた御札を巻いた木瓜を護摩の炎で祈祷します。この木瓜を持ち帰り、三日間、自分の体の悪いところをさすって四日目にその木瓜を川に流すと、願いが叶い、健康になるといわれています。

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この日は併せて、出灰不動谷の美しい清流で『流水灌頂(りゅうすいかんじょう)』が行われました。

『流水灌頂』は、先祖崇拝と自然崇拝という古来の信仰が、佛教と融合した日本の伝統的な先祖供養法です。「流れ灌頂」や「川施餓鬼(かわせがき)」などとも呼ばれ、かつては、日本各地の河川や海岸で地域や宗派ごとの様々なスタイルで行われていました。しかし、都市化が進んだ近代以降、このような素朴な信仰は忘れ去られつつあり、また美しい水を湛えた河川も姿を消しつつあります。

太古からの大自然と霊験新たかで美しい水がある出灰不動谷で、この『流水灌頂』を行おうという思いが叶い今回、この地で初めて修法することができました。

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『流水灌頂』は今後も随時修法いたしますので、皆様も、ぜひ、お申し込みください。
コチラからもお申し込みできます。→http://www.koumyouji.jp/


おまけ写真:法要が終わった後の「長寿祈願 そうめん流し」
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道心の中に衣食有り 衣食の中に道心無し

道心の中に衣食有り 
衣食の中に道心無し

(古淵 慈祥僧正 法話 3/7)

前回分を読む

 でも、八十八ヶ所から帰って、すぐに道が開けない。
 ホンマにね。
 最初は、小さな寺ならすぐに見つかるとタカをくくっていたけど、お寺見つからんし、何もできんし、いよいよ、貯金も底をついてくるし…。
 
 で、しょうがないんで、もう、これは仏様におすがりするしかないと思って、「求聞持法(ぐもんじほう)」という修行をすることにしたんです。

 これは、十三仏のご真言を唱えてると、虚空蔵菩薩(こくうぞうぼさつ)の真言が最後に出てきますよね。
 ちょっと、ややこしい…
 
 のうぼう あきゃしゃきゃらばや おんありきゃ まりぼり そわか
 
 …というね、舌をかむような真言ですけどね。

 「求聞持法(ぐもんじほう)」では、これを百万遍唱えます。
 この虚空蔵さんっていうのは、宝物を生み出してくれるありがたい仏さんで、非常に困っとたんでね、この仏さんにおすがりしようと「求聞持」に入ったんです。

 これは弘法大師が、十八歳で大学を出て、実際に修行されてるんです。
 お大師さんが書いた『三教指帰(さんごうしいき)』という書物があります。
 これは、お大師様の出家宣言の書なんですが、そのきっかけになったのが、この「求聞持法」なんでね。
 で、実際、お大師さんは、それで、すごい霊験を得られたんやね。

 「阿国大龍獄(あこくたいりょうのたけ)に躋(のぼ)り攀(よ)ぢ
  土州室戸崎(としゅうむろとのさき)に勤念(ごんねん)す
  谷響(たにひびき)を惜まず、明星(みょうじょう)来(らい) 影(えい)す」

 …というんですよね。
 
 「阿国」ちゅうのは「阿波の国」、今の徳島ね。
 「大龍獄(たいりょうのたけ)」といいますけど、今は太龍寺(たいりゅうじ)というお寺が建ってます。
 これは、もちろん八十八ヶ所の札所です。
 
 そして、もうひとつ「土州室戸崎(としゅうむろとのさき)」は室戸岬ね。
 ここには、今、最御崎寺(ほつみさきじ)という札所のお寺が建っております。
 ここでお大師さんが「求聞持」されたっちゅうことで、伝説によると、明星、星がね、口に入って来たっちゅうんです。
 そういう霊験を得られたというんです。

 ですから、このお大師さんがされた修行を、私もしたいなと思って…。
 ま、二十歳過ぎに一遍してるんです。
 でも、その時は、真似事みたいなことしかできなかったんで、もう一遍したいなという気持ちがあったんです。

 それで、こういう札所にも、求聞持道場があるんですけど、非常にいい道場が志度(香川県)にありましてね。
 志度にも札所はありますけど、札所ではない日内山(ひうちさん)の奥ノ院というお大師さんを祀ったお寺に三井英光先生っていう偉い先生が監修された求聞持堂があるんです。
 私も一遍行きたいなぁと思ってたんです。
 問い合わせたら、先約があって、今は求聞持に入れないっちゅうことでした。
 
 でも、とりあえず、行くだけ行ってみようと思ってね。
 行ったら、もう、ここ(出灰不動尊)と同じように、やっぱり霊地なんですね。
 皆さんもここに来られたら、普通と違うなと思われると思いますけどね、それと一緒でね、非常に霊地なんです。
 ほんで、やっぱり、ここで修行がしたいなぁと思ってね。
 そしたら、キャンセルがあったっちゅうことで「入れますよ」ちゅうてくださった。
 それで、ありがたいことに、修行さしてもらいますということになったんです。

 それで一ヶ月の準備期間おいて、10月10日から11月の末までの五十日間修行に入ることを決めて帰ってきた。
 その時、脇町(徳島県)というとこで家を借りて住んでたんですけどね。
 
 そしたらね、仕事があるんです。

 お葬式の助法とか、法事に行ってくださいということで、知い合いのお寺さんからいろんなアルバイトを頼まれてね。
 それでね、不思議なことに、修行代が出ました。
 それまで困ってたん、お金がなくてね。

 これはお大師さん(弘法大師空海)の言葉やなくて、伝教大師(最澄)のお言葉ですけどね

 「道心の中に衣食(えじき)有り 衣食の中に道心無し」

…という言葉があるんです。

 どういうことかというと、結局、もう、私の現実そのものやね。

 「道心」。
 これは「道を求める心」ですね。
 「道を求める心」があったら、「衣食」、着るもの、食べるもの、要は、そういう衣食住がついてきますよという、うん。
 しかし、この「衣食住」、お金とか、物質を求めたら、「道心」がなくなりますよと、ね。

 これを私は実感しましたね。
 ホンマに困ってしまって、仏様にお願いしようと、修行して、すがって行ったら、与えてもろてね。

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 これは坊さんに向けた言葉やけどね、皆さんにも通じると思うんです。
 何のために仕事をするのか、うん。
 本当に幸せになるために、それぞれ仕事をするし、商売人も何か自分がお手伝いして、人々が幸せになっていくようにということで商売をする。
 そしたら、おのずからついてきますよ、と。
 でも「道心」っていうのは、金儲けばっかし考えたら、なくなってしまうんやね。
 目先の欲に振り回されてたら、肝心の商売すらやめるはめになってしまいますよってことだと思います。

 これはね、やっぱり皆様にも通じていくと思います。
 大切なのは、どこに自分の心を据えていくのかということです。

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第19回 一日修行体験会(平成23年3月6日) 法話 
光泉寺(徳島県)住職 古淵 慈祥 阿闍梨 (続 3/7)
⇒続き『格好つけてるうちは、まだ継子( ままこ)。』 を読む

殴られましたね、頭をゴーンと。

殴られましたね、頭をゴーンと。
あれ、お不動さんだったんかもわからへんけども…。

(古淵 慈祥僧正 法話 2/7)


前回分を読む

 私は大阪のお寺で生まれて、長男として跡を継ぐ身だったわけですが、父親に逆らってお寺を出て、修行と称して四国八十八ケ所を歩いて廻ったり、求聞持(ぐもんじ)修行…をさせてもらったりした中で、できたら、お大師さんに御縁のある四国に住みたいなぁということを思っておりましてね。

 ま、その願い叶って、今、住んどるんですけどもね。
 お檀家百軒くらいの小さいお寺です、今おるのは。
 
 でも、その前に、檀家八百軒あるぐらい大きなお寺の後継ぎに入ったことがあるんです。

 「これでわしはもう左うちわだなぁ」
 ということでおったんです。

 副住職になって、次、住職になるっちゅうことでね。
 ずっとひとりでおりましたから、奥さんもいるだろうちゅうことで紹介してあげようという檀家さんもおりましてね。

 ところが、その方と会う約束をしたその日に、住職に呼び出されて、突然、クビを言い渡されたわけです。

 事情は省略しますが、とうとう出ないかん、お寺をね。
 
 もう今日は幸せの絶頂だったはずなんです。
 女の人も紹介してもらえる。
 自分の未来はバラ色だ。
 
 その日に「お前はクビだ」と突然言われてね。

 もう、自分の意思とは関係なく、すべてをシャットアウトされた。
 
 その時に

 「あっ、死ぬというのはこういうことやな」

 と思いましたね。

 そういうことがありまして、お四国をもう一遍廻らしてもらったり、修行をしながら来たんですね。
 これは自分に至らぬこともあっただろうとね。

 で、やっぱり、お四国を廻ったら、ありがたいです。
 やっぱり、いろんなことを教えていただけます。

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 その中でも印象深く残っておるのは、愛媛に岩屋寺(いわやじ)ってお寺があるんです。
 坂の上の奥の方の大変苦労する所です。
 その岩の中にお不動さんがいらっしゃるんですけど、その奥に、まだ、白山権現(はくさんごんげん)という行場がありましてね。
 山の上に社があって、そこへは鎖で登っていかなあかん。
 落ちたら、もちろん、怪我しますし、場合によったら、死ぬような所ですね。

 前にもお参りしたことあるし、その時は、ぐるっと外から廻るだけで帰ろうとしてたんです。
 そうしてたら、大阪の和泉から来てた老夫婦に会って、その白山権現に参りたいから、案内してくれと言うんです。 
 私、実は高所恐怖症でね。
 高い所、すごい苦手なんです。
 そんで、ホンマは行きとうなかった。
 で、そこ行場ですからね、普段は誰も入らないように鍵がかかっていて、寺から鍵を借りてこないと入れない。
 
 「私、鍵持ってない」
 「いや、実は、もう鍵を借りて来てるんです」
 
 ほんで、これも御縁かなと思うて、お年を召された二人で大変やったんですけども、案内したんです。
 で、拝み終わった後、下へ降りて、ちょっと休憩してた。

 「おたくは、どちらのお寺さんですか?」
 って話でね。
 「いや、自分は、今、お寺もなくて、お寺を探しとるんです」
 というような話をした。
 
 そしたらね、そこで言うんですよ、

 「あなたは、どんなお寺がしたいんですか?」って。

 私はねぇ、もう、頭殴られたね。
 というのは、その時、お寺出されて、行くとこないし、せめてね、檀家二百五十軒か、三百軒あって、食べていけるお寺がないかと探しとった。
 つまり、生活ですね。
 お金のことしかなかった。
 それがね
 「あなたは、どんなお寺がしたいですか?」って…。

 殴られましたね、頭をね。
 ゴーンと。

 あれ、お不動さんだったんかもわからへんけども…。

 ほいで、
 「少しでも人が来て、喜んでくれるようなお寺をしたいんだ」
 みたいなことをね、しどろもどろに言いました。
 私はね「食べていくためのお寺が欲しい」とは言えなかった。

 そしたら、その方がね
 「今日は、二人でどう行ったらお参りできるかわからずに困っていたので、案内していただいて、すごく嬉しかった」 そして
 「今、こういう行場へ来ているから、荷物もなんも持ってきてないけど、お賽銭の五百円玉だけ持って来ている。これが今の私たちの全財産です。この全財産をあなたに布施します」
 って、くださった。
 
 嬉しかったね。
 これは教えていただいたなぁと思ってね。

 で、それから、考え方が変わったんですね。
 ですから、ほんと、坊さんちゅうのは、そういうもんだなぁと。
 これは、また在家も一緒やと思いますね。
 一生懸命、仏さんに手を合わせてたら、おのずから道は開けるんだなということをね、教えていただいた。

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第19回 一日修行体験会(平成23年3月6日) 法話 
光泉寺(徳島県)住職 古淵 慈祥 阿闍梨 (続 2/7)
⇒続き『道心の中に衣食有り 衣食の中に道心無し』を読む

仏教は頭でわかるんじゃない。心でわかるんです。

仏教は頭でわかるんじゃない。
心でわかるんです。

(古淵 慈祥僧正 法話 1/7)


 私は、大阪のお寺に長男で生まれたもんですから、最初は後を継がなあかんということで、高野山大学へ行きまして、勉強しとったんです。
 大学出た後に、専修学院といって、一年間、お坊さんの免許を取るために修行する学校がありましてね、そこへ行きまして、まだ足らんということで、高野山の大学院の修士課程、それから博士課程に行かしてもらって、計十年以上、高野山で過ごしたんです。
 仏教の勉強、密教の勉強、またお大師様(弘法大師空海)の教えを身に着けたいということで、いろいろと勉強をしました。

 でも、今、この年になってから、わかったことですけれどね、
仏教の「わかる」ちゅうことは「頭」でわかるんじゃないですね。

 「心」でわかる。

 結局、「知識」と「智慧」は違う。
 「知識」は「頭」です。
 頭ではない。

 「智慧」というのは「心」なんです。

 ここに違いがあります。
 私は一生懸命ね、「知識」を勉強したら、仏教はわかるんだと思って、十数年がんばったんです。
 けども、そうじゃない。

 仏教ちゅうのは「心」でわかるんです。

 皆さんね、幸せになりたいでしょう?
 仏教というのはその幸せになる道を説いとるんやね。
 そのためには、やっぱし、現実を知らなあかん。
 まず、「人生は苦なんだ」と。

 「一切皆苦(いっさいかいく)」。

 これは仏教の旗印なんです。
 で、この「苦」ということを分析して「四苦八苦」といいます。
 この言葉ね、みんなもよく使いますよね。
 でも、本当の意味を知ってる方、少ないんです。

 「四苦」というのは
 「生老病死(しょうろうびょうし)」
 といいます。

 「八苦」っていう、残りの四つは
 「愛別離苦(あいべつりく)」
 「怨憎会苦(おんぞうえく)」
 「五陰盛苦(ごおんじょうく)」
 「求不得苦(ぐふとくく)」
 といいます。

 ややこしいですけれども、要は人間が生きていくけど苦しいんやね。
 愛する人とは、好きな人とは別れないかん。
 嫌な人も会わないかん。
 求めても得られない。

 この世には、そういう苦しみがあるんだと。
 まず、現実を見ることから仏教は始まるんです。

 病気の治し方と一緒なんです。
 痛い。
 苦しい。
 まず、この「苦」の原因は何か?
 この原因に対して、「滅する」薬を出しましょう。
 この薬は「道」やね。
 この「滅」した状態が幸せな状態という。
 
 これが「苦集滅道(くじゅうめつどう)」という教えなんですね。
 
 この「苦」から逃れたところに「涅槃寂静(ねはんじゃくじょう)」の境地がある。
 「悟りの境界(きょうがい)」があるんだ…と、
 そういうことを習うんです、仏教の大学でね。

 けども、その当時は、友達とも話しますけど
 
 「オマエ、人生苦しいか?」
 「いや、そんなことはない。人生は楽しいぞ!」

 十八歳やそこらの人生は楽しいです。
 いろいろなことが、これから、まだまだできるんだということで、楽しいことばっかり考えますよね。
 「人生、苦」を感じとらん。
 試験がありますから「生老病死」とか「五陰盛苦」とか、言葉は覚えます。
 頭で覚えます。
 けども、それには、まだ実感を伴わないです。

 でも、五十歳を過ぎてきたらね、今は、こうやって眼鏡をかけないと読めない。
 昔は、ご飯食べても「ごちそうさまでした」で済みました。
 今は、つま楊枝がなかったら困ります。
 風邪ひいても、若い時みたいに一晩寝たら治るってこともない。

 老いる苦しみ。

 だんだんと、そういう苦しみがわかってきます。
 これは実際、自分が体験してみて初めてわかるんよね。
 まだ若い方もいらっしゃいますから、わからないでしょうけど、こちらでうなずいている方も、結構いらっしゃいますよね。
 そんなもんでね。
 本当に「わかる」っていうことは、どういうことか。やっぱり、自分が感じないかん。

 お釈迦様とか、お大師様とか、やっぱり、そういう宗教的な天才って言われる人は自分が体験してなくても、いずれ自分はそうなるということがわかる。

 お釈迦様の有名な出家する伝説で『四門出遊(しもんしゅつゆう)』というお話がございます。
 お釈迦さんは、王子として一切何不自由なく育っておった。
 王様は、王子がいずれ出家するということを予言されていたから、苦しい姿を見せたらいかんちゅうて、見せなかった。
 けども、たまたま門を出たら病人に会った。
 こちらの門を出たら年寄りに会う。
 で、また、死人に会う。

 それを見てお釈迦さんは、
 「これは自分の運命なんだ」
 ということで出家して、これから逃れる道を求められた。

 仏教のほうでは、難しいことをいうと「解脱(げだつ)」という言葉使います。
 解脱…苦しみから逃れるんだと。

 それを「心」でわかるためには、お大師様は、「信心」と「修行」の二つが大事だということをおっしゃっています。
 この言葉を合わせて「信修(しんしゅ)」ということです。
 お大師様自身が書いた『般若心経秘鍵(はんにゃしんぎょうひけん)』という書物の中に
 
 「信修すれば、たちまちに証する」

 とおっしゃってる言葉があります。
 
 仏教って、なんぼ「頭」でやってもわからない。
 「心」でわかるんです。
 「信心」して「修行」をする。
 これは、尊いことだと思います。
 これをね、続けていただいたらと思います。

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第19回 一日修行体験会(平成23年3月6日) 法話 
光泉寺(徳島県)住職 古淵 慈祥 阿闍梨 (続 1/7)
⇒続き『殴られましたね、頭をゴーンと。』 を読む